最終更新日 2023年3月27日
「星野仙一さんの生い立ちについて知りたい」
「星野仙一さんってどんな人?」
「星野仙一さんの監督引退後のお仕事について知りたい」
星野仙一さんは、かつて日本のプロ野球で活躍していた選手です。
ポジションはピッチャーです。
引退した後は、チームの監督もしていました。
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目次
岡山県児島郡福田町の出身の星野仙一さん
星野さんが生まれたのは1947年の1月で、岡山県児島郡福田町の出身です。
福田町は現在倉敷市と合併しています。
星野さんの父親は星野さんが生まれる直前にがんで亡くなっているので、星野さんは母親に育てられました。
星野さんにはお姉さんがいて、彼が野球に興味を持つきっかけを作ったのはこのお姉さんでした。
小学校4年生の時に彼女につれていってもらった高校野球の試合が、野球を自分で始めることになったきっかけです。
高校に進学する時、彼が入りたかったのは野球部が強い学校でした。
ですが、別の高校の野球部の部長から熱心に頼まれたため、彼はこの学校に進学することになりました。
星野さんが入学したこの高校は強豪校として知られるようになり、彼が高校2年生の時には、夏の大会の県予選で準決勝まで進みました。
翌年の夏には決勝戦まで勝ち進みましたが、この時も優勝することはできませんでした。
彼が高校時代に対戦した選手や同じ学校の後輩の中には、彼と同じようにプロ野球の選手になった人が何人かいます。
高校生の時の彼はプロ野球の選手のピッチングフォームの写真を見て、自分の投げ方の研究をしていました。
https://www.ilurotradicions.org/bijyutsukan-ueno.html
https://www.ilurotradicions.org/report-the-news.html
東京6大学の野球リーグでは合計60試合以上にピッチャーとして登板
高校を卒業した後に星野さんは、東京の大学に進学します。
彼がこの大学を選んだのは、高校時代に所属した野球部の監督の母校で、監督から入学するようにアドバイスされたからです。
大学に入ると、彼は1年生の時から1軍の選手として活躍しました。
東京6大学の野球リーグでは合計60試合以上にピッチャーとして登板しています。
通算の勝利数は23勝で、防御率は1点台でした。
2年生の時には、ノーヒットノーランも達成しています。
星野さんがプロ野球の選手になったのは、1968年のことです。
この年のプロ野球のドラフト会議で、中日ドラゴンズから1位指名されました。
ですが、星野さんが子供のころからあこがれていたのは阪神タイガースでした。
彼はドラゴンズに入団するにあたって、彼が尊敬していた選手と同じ背番号を希望しましたが、その時その背番号は他の選手がすでに使っていたため、22番をつけることになりました。
1974年は15勝9敗の成績で沢村賞を受賞
彼が初めてプロ野球の選手として試合に出たのは1969年のことです。
この年は合計49試合に登板して、8勝しました。
翌1970年には10勝をあげています。
彼は入団してから3年目に背番号を20に変更していますが、これはチームのエースがつける背番号でした。
1971年と1972年はそれぞれ9勝をあげています。
勝利数が大きく増えたのは1973年からで、この年星野さんは16勝を挙げています。
翌1974年は15勝9敗の成績で、この年の沢村賞を受賞しました。
なおこの年はセーブも10記録していて、新設された初代のセーブ王にもなりました。
この年星野さんの所属する中日ドラゴンズは20年ぶりに優勝し、ライバルチームの10連覇を阻止しました。
優勝を決定した試合では胴上げ投手にもなっています。
星野さんが現役時代に最も多くの勝ち星をあげたのは1977年
日本シリーズに出場した星野さんは数回リリーフに失敗して、チームも2勝4敗で敗れ日本一になることはできませんでした。
翌1975年には15勝をあげ、1976年の成績は10勝6敗でした。
星野さんが現役時代に最も多くの勝ち星をあげたのは1977年のことで18勝13敗の成績を残しています。
この時が星野さんの投手としての最盛期で、翌1978年には5勝しかあげることができませんでした。
1979年には10勝をあげていますが、1980年は6勝12敗となり負け数の方が多くなりました。
1981年から星野さんは選手をしながら投手コーチ補佐の仕事も担当するようになり、この年の成績は10勝6敗でした。
翌1982年にチームは再度優勝するのですが、この年の星野さんの成績は3勝5敗で、チームの優勝に大きく貢献することはできませんでした。
この年の11月に星野さんは引退を発表しています。
現役引退後はスポーツ新聞や雑誌では野球評論家の仕事を行う
彼の引退試合となったのは翌1983年におこなわれたオープン戦です。
引退をする時に星野さんは、親友であった人気歌手から花束を贈られています。
現役を引退した後の星野仙一さんは、しばらく野球解説者として活動していました。
スポーツ新聞や雑誌では野球評論家の仕事もしていました。
1985年からは国営テレビでスポーツ番組のキャスターもしています。
この番組では野球以外のスポーツの取材もおこない、海外で開催されたゴルフの試合をリポートするために、自分で現地まで行ったこともありました。
スポーツ関係の仕事以外に、バラエティ番組に出演することもありました。
まとめ
星野仙一さんが初めてプロ野球の監督になったのは1986年のことです。
翌1987年から、実際にチームの指揮をとることになりました。
この時は1991年まで監督を続けました。